読書の秋、邦画の秋〜怒り、少女、オーバー・フェンス、だれかの木琴。

 

   9月に入って読書の秋さながら、小説原作の映画化作品の封切りが頻発している。その多くが水準以上の出来で、春には「64―ロクヨン―」の公開があったりして今年度は邦画の豊作の年に違いない。

  まず紹介するのは井上荒野原作の「だれかの木琴」。監督は名匠東陽一。この監督は原作ものには定評があり、古くは「もう頬づえはつかない」(79年)や「四季・奈津子」(80年)から最近は「わたしのグランパ」(03年)「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」(10年)などの話題作がすぐに思い浮かぶ。そういえば「橋のない川」(92年)の再映画化にも携わっていたか。

『だれかの木琴』予告

 「だれかの木琴」はタイトルも曰くあり気だが、内容も劣らず変わっていて、ごく普通の主婦のストーカーへの変貌がシュールなタッチで描き出された佳品であった。小説に比べると心理描写が難しいのが映画だが、主役を演じた常盤貴子のたたずまいが妖しく官能的で、サスペンス映画といっても良い程にハラハラドキドキさせられた。

だれかの木琴 (幻冬舎文庫)

だれかの木琴 (幻冬舎文庫)

 

    主演女優の演技といえば「オーバー・フェンス」の蒼井優も負けてはいない。白頭鷲だったかな、その求愛ダンスを踊るところなどはこの映画の肝にもなっているように思えて絶品だった。


「オーバー・フェンス」予告編

  この作品は5回芥川賞候補にノミネートされながら獲得するにいたらず、遂には自ら命を絶った悲運の作家・佐藤泰志の函館三部作の最後を飾る力作である。前二作「海炭市叙景」(10年)と「そこのみにて光輝く」(14年)が共に映画雑誌の年間ベストテンに選ばれており、今作への関心もいやがうえに高まろうというもの。

   結果として、僕自身、この作品は大いに気に入った。ここしばらくは「マイ・バック・ページ」(11年)や「苦役列車」(12)などの原作ものの映画化が多い山下敦弘監督は内外からのプレッシャーにも負けず、期待通りの作品に仕上げてくれた。前二作の如何にも文学然とした暗鬱な内容とは異なり、今作はどこにでもいそうな不器用な男女の恋愛が山下監督お得意の人間臭い登場人物を散りばめられて等身大に展開する。この映画の持つある種の軽味に苦言を呈する映画仲間がいるが、僕はこの軽やかさはこの映画の持ち味であり大事だと思う。この作品の屈折振りは、感情の起伏が激しい自分のことを自ら「ぶっ壊れている」と表現する蒼井優演じる「さとし」(彼女曰く、頭の悪い親が付けた名前とか)のキャラクターの造形で十分である。 

黄金の服 (小学館文庫)

黄金の服 (小学館文庫)

 

   また今秋、最も注目を浴びた作品は「怒り」であろう。原作吉田修一、監督李相日のコンビは、公開時にはベストワンの評価を得た「悪人」(10年)に次いでのもの。何といっても出演者が豪華で尚且つ素晴らしい。犯人探しのミステリーなのだが、物語と共に役者陣の演技合戦からも目が離せない。


「怒り」特報

  東京篇では妻夫木聡綾野剛、千葉篇では渡辺謙松山ケンイチ宮崎あおい。また沖縄篇では森山未来広瀬すずといった有名どころが濃密な人間ドラマを演じている。

  この三地域のドラマが平行に描かれる作りは分かりやすく、映画的に原作の内容が上手に取捨選択されているように思えた。上映時間は142分でやや長めではあるが、この時間内で三か所のドラマが過不足なくスピーディーに展開出来たのは何と言っても脚色の功績が大であろう。

  この映画にはそれぞれの話にインパクトのある見所が挿入してある。好青年・妻夫木は文字通りの体を張ったゲイ演技、嘗ての国民的女優・宮崎あおいは頭は少々弱くても気持ちの優しい風俗嬢役、そして最大の衝撃は今が旬の若手女優の筆頭広瀬すずの凌辱シーン。これらが実にバランス良くエピソードを形成し作品に膨らみと味わいを持たせている。この三人がそれぞれ犯人らしい男と交流するのだから映画が面白くならないわけがない。
  顔を整形して逃亡する容疑者三人を綾野剛松山ケンイチそして森山未来が演じるのだが、真犯人探しと共にあらぬ疑いをかけられた無実の二人の悲劇の行方も見所になっている。整形後の犯人の顔写真にこの三人が三人共によく似ていて、誰もが真犯人に思えてくるから不思議だ。これは映画ならではの面白味で文字で語る原作小説ではどのように巧みに描写しようとしても難しいところであろう。

  タイトルにもなっている〈怒り〉とは何なのか考えてみたい。この三つの物語からはまずはゲイ差別や障害者差別、基地問題等で苦悩する沖縄の不条理が思い当たる。こういった日本の社会が抱える差別や貧富の差、不条理に真犯人の人格形成は無縁ではなさそうだ。真犯人の心の闇は常人の手には負えないほどに膨大な負のエネルギー量を有してしまっている。人間の心根は誰にも分からないということだろう。日本社会の病みがこの犯人、モンスターを育て上げたということなのか。〈怒り〉はどのようにも社会と向き合うことが出来ない自分に向けての〈怒り〉でもあろう。この映画の中に、主題としての〈怒り〉そのものに言及した描写はない。我々観客一人一人が〈怒り〉とは何だったのか推察するしかない作りになっている。この映画が類いまれな問題作である所以である。真犯人が誰なのか、〈怒り〉とは何に向けてのどんなものなのか、より多くの映画ファンに見極めていただきたいものである。

怒り(上) (中公文庫)

怒り(上) (中公文庫)

 

   湊かなえ原作の「少女」は、本田翼と山本美月が主演ということで期待して見に行ったが少々残念な出来だった。話が多岐に亘っていてどうみても上映時間119分では収まらない内容。 


『少女』予告編

  色んなエピソードが最後に収束する作りは原作譲りだったか。映画は120分前後の上映時間という縛りがある反面、小説は何十ページでも何百ページでも作者の思いのままである。長編小説を119分の映画脚本に纏めようとした結果、省略の度合いが過ぎたりエピソードの描写が舌足らずになったりして、かなり荒っぽい話の進展具合になっている。こういうミステリータッチの布石が必要な小説はカットする部分が難しいことを痛感。「ソロモンの偽証」(15年)や「64―ロクヨン―」のように前篇、後篇二作品に分けるとかもう少し工夫をしないと全体的に未消化の場面が目立って勿体ない事甚だしい。彼女たちの人格形成に重要な家族の描写がほとんどなかったり、盗作騒動を起こす教師はいったい何者なのか、行き当たりばったりの描写が頻発する。そうそう映画が終盤になってアノ稲垣吾郎ちゃんが登場してきて重要なエピソードに絡んでくるのだから、驚くのなんの。それでもそこそこ楽しめたのは仕掛けが幾重にも張り巡らされた原作の面白さを感じられたからであろう。ヒロイン二人の友情物語の側面にも感じ入ったので、近いうちに原作小説にも目を通してみようかと思っている。 

少女 (ハヤカワ・ミステリワールド)

少女 (ハヤカワ・ミステリワールド)