『つぐない』に見る贖罪と小説家の業

 

 この映画は、姉の恋愛を自らの幼さ故の過失で悲恋にしてしまった妹の、生涯をかけての償いの話である。姉役のキーラ・ナイトレイ主演の甘い本格派の恋愛映画を楽しもうと見始めると、ちょっと肩すかしをくらう。観る前の映画の印象がソフトなので致し方ないが、妹の償いの方法や罪の意識の持ちようが尋常ではないので、どうもそのギャップに戸惑う観客が多そうだ。 

  ファースト・シーンからラスト・シーンまで、ともかく妹ブライオニーの出番が多いのには驚く。彼女は事件を起こす映画の導入部では13才で、その後姉たちの恋愛の再成就と償いに邁進し始めるのが18才、そしてついには念願の小説家になって真実を語ろうとする老年時の佳境までを、三人の女優が見事に演じ分けている。

  生涯でただ一人愛した男性を自らの嘘で犯罪者にさせた罪の意識は、相当なものであったであろう。彼女のその後の人生を左右させたといっても良いくらいである。ロビーが警察に連行されて行かれる際、彼の母親が大声で叫びつづける「嘘つき!」の声が、後年になっても彼女の耳に鳴り響いたはずだ。

 この映画の作りは実に独特で、通常の映画とはちょっと違う構成になっている。

 実はこの映画、殆どが後日作家になったブライオニーの最後の小説『つぐない』の映画化、という設定なのである。回想シーンには客観的な事実は全くなく、全て妹の視点で眺めた事件の顛末であるか、またここが重要なところなのだが、18才の時点のエピソードの多くがフィクションとして、彼女の姉とその恋人に対するかつての過ちの償い箇所として創作されているのだ。 

  事件の後、離ればなれになったままの姉とその恋人が一時同棲生活をして、ささやかな幸せを得ている場面も、第二次大戦に従軍したロビーが一時帰国した事実はなく、出征の折りほんの短時間顔合わせ出来ただけなので、創作であることが明白である。

 ブライオニーは事件のせいで叶わぬままであった二人の恋愛を、せめて小説の中ではいっときでも幸せな日々を送らせようとする。いや、そのこと以上に心に残るのは、自らを罰するかのようなロビーの口を借りての厳しい叱責、罵声である。
 彼女がようやく探し出した姉の家を訪ねると、何と戦地に行っているはずのロビーが滞在している。彼女は事件の無礼を詫び、名誉を回復させるために努力することを誓うのだが、ロビーの態度があまりにも強行なので驚く。「本当のことを書面に残してくれ。韻も装飾も抜きで。そして二度と来るな」

 妹ブライオニーが小説の中で拘っているのは、誤解と嫉妬、そこから端を発した虚言で罪に問われたロビーの名誉回復と姉セシーリアとの限られた日々の中での、ささやかな幸福だけではない。悲劇に終わった姉達の恋愛を、可能な限り幸福なものにしようという作為にも、無論心をうたれる。しかしこの作者が何よりも重要視しているのは、自らの過失に対する厳しい罰、であることが数々のシーンでの描写から分かってくる。ブライオニーの母親の「嘘つき!」という叫び声も、彼の戦地での酷い惨状も、勿論装飾を抜きにして真相を書面にしてくれとの言葉も、すべて小説家である自らを罰するためのものである。自らを鞭打つ一貫した姿勢は、ある種宗教的な境地さえ思わせ、壮絶である。原作小説のタイトルも宗教を感じさせるものである。

贖罪〈上〉 (新潮文庫)

贖罪〈上〉 (新潮文庫)

 

  小説家が作品のなかで、かつての出来事をかえりみて、贖罪に努めようとする時の限界、どこに真意があるのか、を感じざるを得ない。だから小説などの芸術の企みに気づきつつも「つぐない」を書かざるを得なかった小説家の業というものも、この映画では重要な要素にもなっている。ものを書く、創造する場では、作者の力は万能で神にも匹敵する創造主であることを、再確認した映画でもある。

 本当は妹が映画監督になって、映画を題材にして欲しかったとは、映画ファンの業である。「バッド・エデュケーション」が映画監督が過去を顧みる内容で、ふと思い起こした。「バッド・エデュケーション」についての評はまた後日としよう。